文楽を観るようになったのは十年ほど前から。観ても観ても造詣はちっとも深まらないのだけれど、単純に観ていて聴いていて、これが惹き込まれるのです。ご覧になったこと、ありますか?
私が最初に観た演目は、忘れもしない『曽根崎心中』。王道ですね。今は亡き吉田玉男さんによる徳兵衛と吉田蓑助さんによるお初、配役も王道です。その人形の姿にド素人(←私)はまず喰いつきました。艶やかで、儚くて、けれど生々しい。とはいえ、生臭くない。人形だとわかっているのに、後ろで誰かが操っていると知っているのに惹き込まれる、そんな自分に驚きました。徳兵衛なんて優柔不断なバカ男、個人的にはちっとも好きになれないけれど。文楽というものにノックアウトされて半ば興奮しつつ、ブルゴーニュのおいしい赤を飲んだあの夜のことは今でも思い出すなあ……(遠い目)。
吉田蓑助師匠に初めてお目にかかったのは、前述のノックアウトまで後1〜2時間となった師匠の楽屋にて(ご縁があって、連れてっていただいた)。素人一行をとてもニコニコと迎えてくださり、間もなく持ち出されたのが人形の胴串(どぐし、と読みます。人形遣いが握る、首の下の部分)。いきなり「ほれ、どうぞ」という眼差しで私の目の前に(今から思えば、お初の頭だったはず!)。もうね、何十年も遣い続けてツルツルのピカピカの黒光り。師匠の左手が握る様そのままに、なだらかかつ複雑なカーブを描いている胴串を至近距離でじーーーーーっと眺めていると、「ほれ、はよ持たんかいな」という笑顔。無言の笑顔(師匠は脳出血からの快復直後で、まだ会話が難しかったのです)。ええっ。どうしよう。胴串という名前もまだ知らなかったけれど、これが人形遣いの司令塔、心臓部ともいうべき神聖な道具であることはド素人でも判るわけです。そんなん「わーい♪」と触れるか??? そんな根性は私にはございません。小心者のド素人は、師匠が差し出す胴串にそっと手を添えて、「す、すばらしいですねぇ」とマヌケなコメントで感激を表すのが関の山……。
それ以来、楽屋にお邪魔しても胴串を差し出してはくださらず(最近は、随分と会話力も回復されてめでたい限り)。今から思えば、無邪気な振りして存分に握らせてもらえばよかったなぁと。
最初の文楽で演目や人形遣いは覚えていても、大夫や三味線が誰だったかは覚えていない……私が文楽に不案内だった何よりの証拠がコレなわけですが(赤面)。その後にはもちろん義太夫節、そして三味線にも自然と興味が湧いてきて、ときには目をつむって耳だけを楽しませんこともあるのです。人形、語り、三味線の三つが揃ってこそ文楽、と今では心底思います。その三位一体の素晴らしさにクラクラします。もっと判る方は、もっとクラクラされていることでしょう。
文楽って、ストーリーとしては「〇〇は実は△△だったって…唐突すぎるわ!」とか、「なんでこの男はここまで不甲斐ないねん?」とか突っ込みどころ満載なものが多いのだけれど。それでも惹きつけるものが余りある。そんな伝統芸能のひとつだと思うのです。みなさま、どうでしょう? 東京では
国立劇場小劇場で文楽公演やってますよ。12月は若手中心のキャストですが、「本朝廿四孝」では蓑助師匠のお弟子であり次代を担う桐竹勘十郎さんが、「〇〇は実は△△だった!」という役を担当されています。まずはチラリと観てみていただけたらと思うのです。そうそう、年末は
福岡・博多座にてもご覧になれるはず。こちらは蓑助師匠はもちろん重鎮が続々登場(私も行きたい!)。
私の祖父が文楽好きで、大阪に住んでいた頃には文楽劇場に足繁く通っていたとは後に聞いた話。彼がまだ生きていたら、文楽話をしてもらえたかも。そう思うと、少し寂しく悔しい思いながら、ときどき劇場に通っています。